衣笠祥雄氏が上行結腸がんで死去!通夜・告別式・お別れ会の日程は?

元プロ野球広島カープの選手で伝説の鉄人衣笠祥雄氏が、上行結腸がんで死去されたという悲しいニュースが24日に報じられました。

連続試合出場記録2215試合という日本記録を樹立され、プロ野球界では2人目の国民栄誉賞を受賞された衣笠祥雄氏の通夜・葬儀・お別れ会の日程などを中心に、衣笠氏の輝かしいプロ野球人生を振り返ります。

衣笠祥雄氏は広島カープファン、野球ファンだけでなく広く愛された方なので、通夜、葬儀、お別れ会などの日程が気になりますね。

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衣笠祥雄氏の通夜・葬儀・お別れ会の日程は

衣笠祥雄氏は報道によると、4月23日に上行結腸がんでお亡くなりになられたようです。

お通夜は、4月24日に都内の葬祭場で執り行なわれました。

葬儀には、広島カープで赤ヘル軍団の一員としてともに活躍し山本浩二さん、江夏豊さん、広島黄金時代監督をされていた古葉竹識さんなど、一緒にプレーした仲間がお通夜に来られたようです。

「山本浩二」の画像検索結果

「江夏豊」の画像検索結果

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衣笠祥雄氏が逝去されてから、正式発表などせずにお通夜が営まれたことから、生前のご本人又は家族のご希望で、近しい関係者だけで、速やかにすまされるご意向なのかもしれませんね。

お通夜の日程なども考えると、葬儀の日程は正式に発表されていませんが、25日か26日に執り行なわれると思われます。

国民栄誉賞も受賞された衣笠祥雄氏のお別れ会は、ご家族と関係者の方が協議して必ず行われると思います。

お別れ会の日程等は、後日発表があると思います。

野球ファンの方を含めたくさんお方が、衣笠祥雄氏との最後のお別れに駆けつけたいと思っているので、正式に発表がありましたら、このブログにてお知らせします。

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衣笠祥雄氏の足跡

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衣笠祥雄氏の足跡をプロ野球人生を中心に見ていきたいと思います。

  • 名前:衣笠 祥雄(きぬがさ さちお)
  • 生年月日:1947年1月18日
  • 没年月日:2018年4月23日
  • 出身地:京都府京都市

衣笠祥雄さんは、進駐軍の兵士として日本に駐留中だったアフリカ系アメリカ人の父親と、日本人の母親の間に生まれたとされています。

1965年平安高校を卒業後、捕手として広島カープに入団する。

入団後、白石勝巳監督の方針で内野手に転向する。

1968年から一塁手として一軍レギュラーに定着します。

1975年にはジョー・ルーツ監督によって三塁手にコンバートされる。

1975年は、5番打者として4番の山本浩二さんと共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献しました。

1970年10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録であったが、1979年のシーズンで大きな不振に陥り、シーズンの5月28日の試合で、当時の古葉監督がスタメンからはずす決断をし、三宅秀史が保持していた700試合の連続フルイニング出場日本プロ野球記録はあと22試合というところで断念させられた。

しかし、衣笠さんは代打、代走、守備固めで連続試合記録を伸ばし、1989年引退するまで連続試合出場記録を続け、2215試合連続出場を果たしました。

2215試合連続試合出場はという大記録を樹立した衣笠祥雄さんは、鉄人というニックネームからも、連続試合出場ばかりがクローズアップされがちです。

しかし衣笠さんは、長期に亘って安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で福本豊と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で張本勲と同数)、通算打点1448(歴代10位)、通算得点1372(歴代5位)を記録しています。

衣笠さんは、豪快なフルスイングが魅力のバッターでしたが、安定した成績を残されていて、打者としては超一流だったことがわかりますね。

広島カープは、衣笠祥雄さんの功績を讃え、1975年から衣笠さんのつけていた背番号「3」はカープの永久欠番しました。

衣笠祥雄さんは、チームメートやファンの方、関係者の方を大切にする素晴らしい選手だった。

SNSをピックアップ

SNSの投稿ももの凄い数で、衣笠祥雄さんのプレーヤ、人柄が大好きな人がたくさんいることが本当にわかりました。

衣笠祥雄さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

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